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2012年2月16日


http://www.hmv.co.jp/product/detail/4969377

Julie 的新CD預定三月十一日發賣,曲名和發賣日令我發揮無限想像,難道去年3月8日Julie觀天有所預感?這曲是哀悼?記念311?更可能的是提倡棄核能罷?但也有可能是歌頌女性播!?

我正在考慮,究竟是郵購丫?還是等去到日本才買?去到日本幫襯Tower丫?定係0係紀伊國屋サザンシアター場外現兜兜買?還是各買一隻?頭痕添。

2012年2月4日

タイガース復活!瞳みのる“奇跡の再会”

タイガース復活!瞳みのる“奇跡の再会"




40年ぶり、いや41年ぶりになるのかな。ザ・タイガースのドラマー、瞳みのる(ピー)とテレビ画面で再会した。

 1月18日に放送されたNHK「SONGS 沢田研二 ザ・タイガースを歌う」。

 残念ながら加橋かつみ(トッポ)の姿はなかったけど、ボーカルの沢田研二(ジュリー)、ベースの岸部修三(サリー、今は俳優・岸部一徳だけどね)、ギターの森本太郎(タロー)の後ろで、元気にドラムをたたいていた。当時最大のヒット曲「君だけに愛を」での、あの印象的なスティックさばきも健在だった。

 今回のテレビ出演がどれほどの大事件であるかを、いまの若い人たちに伝えるには少々骨が折れる。例えるなら、1996年にSMAPを抜けた森且行(現オートレース選手)が「SMAP×SMAP」に出演したようなもの、とでも言えばいいのかな。(森君だってテレビで姿を見なくなってからもう16年…もはや中学生以下の子たちにとっては、SMAPは生まれたときから5人組なんだね)

 オヤジに言わせりゃ、GS(グループサウンズ)ブームのピーク時=67、68年ごろ=のタイガースは、いまのSMAPと嵐を足したぐらいの人気があったんじゃないかな。トップアイドルはジュリーだったけど、ピーだって負けてなかった。

 そのピーが、日本武道館での解散コンサート(1971年1月24日)の後、すぐに故郷の京都に戻り、必死で受験勉強して慶応大学に合格。卒業後は慶応高校で中国語・漢文の教師をしていたことは、ファンには周知の事実なのだけど、でもまさか、かつてのメンバーたちと再びテレビに出て、デビュー曲「僕のマリー」を皮切りに当時のヒット曲を歌い、演奏する日がこようとは。長生き(?)はするもんだ。

 それにしても、もともと小柄でスリム体形のピーは、あのころのイメージのままだった。それにひきかえ、ジュリーは太りすぎで、いまや倍に膨らんでしまった。一方、サリー=岸部一徳は…実にカッコよかった。最近、ドラマで姿を見ないけど、俳優よりベースを弾いてるほうが楽しい? (新橋のネクタイ巻き)

這篇以瞳SIR 作主角,都係一般野,費事譯。不過唔講我都唔知SMAP舊時果個 森且行而加做左賽車手。

第24回ミュージック・ペンクラブ音楽賞 受賞作品が決定


獎無話嫌多,攞開唔好俾佢停。第24回Music Pen Club得獎名單公報:

◆コンサート・パフォーマンス(日本人アーティスト)
(CONCERT PERFORMANCE ~Japanese artist)
「沢田研二Live2011-2012 ゲスト:瞳みのる・森本太郎・岸部一徳」
毎年、精力的にLIVEツアーを展開している沢田研二。このツアーでは、現在は俳優として活躍している岸部一徳、自身のバンドで活動中の森本太郎、そして40年振りの復帰となった瞳みのるという“ザ・タイガース"のオリジナル・メンバーが全曲で演奏に参加。ヴォーカルの沢田を含めた4人による躍動感溢れる演奏からは、現役のバンドをも上回る程のグルーヴが生み出され、“グループ・サウンズの王者"の名に相応しい貫禄と華やかさが感じられるステージを見せてくれた.

一句講晒,Group Sound 王者,名不虛傳。

相關網誌:







2012年1月27日

タイガース復活! ついに姿を現さなかったトッポにファンは2極化?

"TIGERS 復活,最終加橋沒有現身,歌迷分化?"大家無需認真,呢篇東西係估文嗟。

澤田研二與好友"THE TIGERS"成員一起作全國巡演,早前24日是最終一場。最終日最令人激動便是激瘦的健康狀態不好的四郎也出席,與四十年熱情不變的FANS見面。

可惜,FANS期待的、當年人氣與JULIE平分春色(?! 未算!)的加橋卻未有現身。

一部份的FANS 以為,連與加橋最知心的瞳也復出,加橋一定"飛身撲出"的講法一直都在流傳,只是加橋不置可否。

當初加橋就是以音樂上有不同理念為理由,自TIGERS脫隊,玩失蹤事件更是非常有名。

現在JULIE 與加橋的關係比起以前還要差,因為一次JULIE 喺新聞度話過加橋係黐線架(トッポはキチ○イ),當時這發言引起好大的是非。


加橋本身在"加橋MUSIC CLUB"非常活躍,話過:"沒必要重返TIGERS 啦"。FANS 們有D認為"而家四郎都出現啦,後期成員都齊晒啦,仲駛乜"再結集"丫?",有D FANS 就話"想加橋同四郎齊齊出現只是JULIE一廂情願嗟!",議論紛紛。

目前各成員已過60歲,四郎身體又差,看來加橋那方面要快快有所行動,才能打破SUPERSTAR GROUP既宿命喇。


タイガース復活! ついに姿を現さなかったトッポにファンは2極化

2012年01月26日 15時30分 [エンタメ] 2012年01月バックナンバー

 沢田研二がかつての仲間『ザ・タイガース』のメンバーと共に渡った全国ツアーが先日24日、ついにフィナーレを迎えた。最終日には激ヤセし、健康状態も不安視されているシロ-こと岸部四郎も登場。40年前と変わらぬ冴えたトークを見せファンに健在ぶりをアピールした。

 さて、ここでファンが心待ちにしていたのは、やはりかつてジュリ-・沢田研二と人気を二分していたトッポこと加橋かつみの復帰である。

 一部のファンの仲ではトッポの唯一の理解者であったと言われるピーこと瞳みのる(人見豊)の復帰のこともあり「トッポ飛び入り参加か?」との噂も流れていたようであるが、ついに加橋は姿を表わさなかった。

 加橋かつみは、かつトグル-プ内での音楽性の違いや、グループサウンズ自体への違和感からタイガースを脱退。事務所あげての失踪劇まで繰り広げられた事はあまりに有名である。

 しかしながら、当時より、沢田研二と加橋かつみの仲は最悪で、かつては沢田が新聞で「トッポはキチ○イ」と発言していたという物騒なエピソードも残っている。

  もっとも加橋は加橋でライブハウスなどで精力的に活躍しているため、「あえて再びタイガースに戻る必要は無いのでは?」というトッポ側に立った意見や、「シロ-が来たので、後期メンバーは全員集結。これで再結集ということでいいのではないか?」という意見、「トッポとシロ-揃えての再結集を望んでいるのはジュリ-ただひとりのように見えた」という、かなり覚めた意見もありファンの間では今も議論が続いているようだ。

 もっとも、メンバーは全員元気とは言っても既に還暦を過ぎ、岸部四郎の健康問題という、かなり切迫した問題も残っている。トッポ側にも、何かしらのアクションが求められる展開になるのは間違いないようだ。

 解散から40年、大きな祭りを終えた今でも、ファンの間では議論の絶えないトッポ問題。これぞスーパースター集団の宿命か?

2012年1月25日

一月廿四日武道館消息

昨天的武道館演出,一共有一萬三千觀眾出席。四郎終於站在台上獻唱一曲「若葉のころ」。四郎話,多得JULIE才夢竟成真,一副心滿易足的樣子。看,五虎的笑容多真心! JULIE 話,自己也已63歲,四郎身體又咁,所以願望喺不久既將來,要TIGERS"完全復活" (加橋在內)! 說時非常堅決的樣子。

何止只欠加橋,其實欠我也誠一憾事也。我也好堅決咁約定JULIE,下次TIGERS"完全復活",一定唔會少咗我!

剛看過四郎表演片段。要感激今次直擊報導的KENJISERIES,讓我像是置身現場一樣。四郎係行出台

 



41年ぶり武道館、タイガース全国ツアー千秋楽

グループサウンズ・ブームの頂点にいた「ザ・タイガース」の解散時のメンバー5人が24日夜、41年ぶりに東京都千代田区の日本武道館に集った。1971年の解散公演と同じ日、同じ会場で往年のヒット曲を歌い上げ、約1万3千人の観客を熱狂させた。

 この日は、ボーカルの沢田研二さん(63)=ジュリー=、ベースの岸部一徳さん(65)=サリー=、ギターの森本太郎さん(64)=タロー=、解散後に高校教師に転身したドラムの瞳みのるさん(65)=ピー=の4人による全国ツアーの最終日だった。

 3曲を歌った後、沢田さんが「一緒にこの時間を過ごしてくれてありがとう」と客席に語りかけると、「ジュリー」の声があがり、涙を流すファンも。「モナリザの微笑」「青い鳥」などザ・タイガースのヒット曲や、ザ・ローリングストーンズの名曲などを、ときに激しく、ときにしみじみと歌うメンバーの姿に歓声が止まらなかった。

 途中、サプライズゲストとして病気療養中のギターの岸部四郎さん(62)=シロー=が、兄の一徳さんに支えられてステージに登場し、解散時のメンバーが勢ぞろい。いすに座り、かすれた声で懸命にザ・ビー・ジーズの「若葉のころ」を歌うシローさんの姿に、会場のファンからすすり泣く声が漏れた。

 かつて、指をさされた女性が失神するとまでいわれたジュリーの「黄金の人さし指」も健在だった。「君だけに愛を」で、沢田さんが「君だけに~」と歌い客席を指さすと、「キャー!」という声があちこちから上がった。

 「シーサイド・バウンド」では体を横に揺らすダンス、「シー・シー・シー」ではリズミカルな手拍子と、ファンたちは41年前と同じようにコンサートを楽しんだ。

 今回のツアーは、沢田さんの呼びかけで実現。全国38会場で公演し、計約9万人が詰めかけた。初期メンバーの加橋かつみさん(63)=トッポ=の参加はかなわなかったが、沢田さんは「決して僕はあきらめてませんし、全員が『全員で集まってやりたい』と思っていると信じている。命がある限り、全員そろってタイガースです」と話した。

 ザ・タイガースは67年にデビュー。途中で加橋さんが脱退し、代わって岸部四郎さんが参加。ヒット曲を連発し国民的な人気グループになったが、わずか4年で解散した。81年の「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル」以降、メンバーの一部が集まり何度か公演をしている

ザ・タイガース:岸部シローも登場 解散の地で再集結
 沢田研二(63)の全国ツアー最終公演が24日、日本武道館で開催された。41年前のこの日に解散公演を行った「ザ・タイガース」の後期メンーが集合。
 ツアーメンバーの瞳みのる(65)、森本太郎(64)、岸部一徳(65)に加え、ゲストで岸部シロー(62)も登場。03年に患った脳内出血の後遺症は残るが、ジュリーは「肉体的にも精神的にも落ち込んでいたが、ここまで来てくれる気力が戻ってきた」と紹介。一徳に体を支えられてステージに上がり、か弱い声でビージーズの曲「若葉のころ」を歌った。「ステージに立てたのは全部ジュリーのおかげ」と感謝し、約1万3000人の喝采を浴びた。(スポニチ)2012年1月25日
ザ・タイガース、41年ぶり武道館 解散時メンバー集結

 グループサウンズ・ブームの頂点にいた「ザ・タイガース」の解散時のメンバー5人が24日夜、41年ぶりに東京都千代田区の日本武道館に集った。1971年の解散公演と同じ日、同じ会場で往年のヒット曲を歌い上げ、約1万3千人の観客を熱狂させた。

 ボーカルの沢田研二さん(63)、ベースの岸部一徳さん(65)、ギターの森本太郎さん(64)、解散後に高校教師に転身したドラムの瞳みのるさん(65)の4人による全国ツアーの最終日。この日は、病気療養中のギターの岸部シローさん(62)も駆けつけた。

 沢田さんが「一緒にこの時間を過ごしてくれてありがとう」と客席に語りかけると、「ジュリー」の声があがり、涙を流すファンも。「モナリザの微笑」などザ・タイガースのヒット曲、ザ・ビートルズの名曲などを、ときに激しく、ときにしみじみと歌うメンバーの姿に歓声がやまなかった。


「ザ・タイガース」一夜限りの“復活” 岸部四郎「夢のよう」
 歌手の沢田研二(63)がボーカルを務めた伝説的グループサウンズ「ザ・タイガース」が24日、東京・北の丸公園の日本武道館で“復活”した。
    昨年9月にスタートした沢田の全国ツアーには、ドラム・瞳みのる(65)、ギター・森本太郎(64)、ベース・岸部一徳(65)と当時のメンバーがゲスト参加。この日の最終公演には、岸部の弟で後期メンバーのタレント・岸部四郎(62)も特別出演した。
 03年に患った脳梗塞の後遺症で歩行困難になった四郎は、兄に支えられて登場。ザ・ビー・ジーズの「若葉のころ」を披露した。ザ・タイガースは71年1月24日に日本武道館で解散コンサートを行っており、ちょうど41年ぶりに同じ場所で5人がそろった。
 一夜限りの“再結成”に、四郎は「夢のようです」と感無量の様子。沢田は「これで少し元気になってくれれば」。この日は、初期メンバーでは加橋かつみ(63)だけが不参加となったが、沢田は「全員そろってのザ・タイガース。近い将来、それが実現することを願っています」と言葉に力を込めた。[2012/1/24-21:48 スポーツ報知]


岸部シロー、ジュリーのコンサートに登場
2012.1.25 05:02
しっかりした旋律で「若葉のころ」を歌う岸部シロー(左から2人目)を見守る左から岸部一徳、森本太郎、沢田研二、瞳みのる =東京・北の丸【フォト】 
 歌手の沢田研二(63)が24日、東京・日本武道館でタイガース時代の同僚、瞳みのる(65)、森本太郎(64)、岸部一徳(65)とまわった全国ツアーを打ち上げた。
 この日は特別ゲストとして後期メンバーの岸部シロー(62)も登場。2003年に患った脳梗塞の後遺症で歩行困難になったシローだが、兄の一徳の手を借りて歩いて登壇すると、会場の1万3000人は拍手で迎えた。
 沢田が「精神的にも肉体的にも落ち込んでいましたが、ここまで戻ってきてくれた」と紹介すると、シローは「ステージに上れるのは全部ジュリーのおかげ。夢のよう」と感謝し、ソロボーカル曲「若葉のころ」を英語で熱唱。客席からは、すすり泣く声がもれた。
 沢田は「命のある限り全員そろってのタイガース。ぼくも63歳。シローはあの状態ですから、近い将来、実現したい」と中途脱退した加橋かつみ(63)を含むフルメンバーの再会を約束した。

 歌手沢田研二(63)が24日、東京・日本武道館で全国ツアー「LIVE 2011~2012」の最終公演を行った。グループサウンズ、ザ・タイガースとして約40年ぶりに“再結成”したツアーは、昨年9月8日東京・有楽町の国際フォーラムからスタート。当時メンバーだった瞳みのる(65)森本太郎(64)岸部一徳(65)らと一緒に武道館公演を含め全国38カ所で約9万人を動員した。

 ザ・タイガースは1971年(昭46)1月24日に日本武道館で4年間の活動に終止符を打ち、解散コンサートを行った。元メンバーと武道館に集まったファン約1万3000人にとって記念すべき公演となった。

 この日は岸部一徳がソロで「Tell Me」を歌い、弟の元メンバーでタレント岸部四郎(62)も急きょ駆け付け、メンバー5人がそろった。四郎はハンチング帽にサングラスで、兄の一徳に支えられながらステージに登場。「若葉のころ」をソロボーカルで披露した。岸部は、「全部ジュリーのおかげや。ありがとう」と帽子をとってあいさつ。「1曲といわず2曲といいたいところですが1曲やね」と笑い、「こんなステージに立てるなんて夢のよう」と感謝した。

 沢田は、「メンバー全員で立ちたかったです。全員でやれることをぼくは信じています。近い将来実現できることを待っていて下さい」と、トッポこと加橋かつみが加わったザ・タイガースの復活を誓った。

 岸部四郎がステージで歌ったのは、82年の「沢田研二ザ・タイガース同窓会記念コンサート」以来30年ぶりとなった。

 [2012年1月24日21時54分]

岸部四郎、感激「全部ジュリーのおかげ」

 沢田研二と、ザ・タイガースの元メンバーの瞳みのる、森本太郎、岸部一徳をゲストに迎えた全国ツアーの最終公演となる日本武道館公演が24日に行われた。この日は元メンバー岸部四郎(62)が急きょ参加。岸部は「全部ジュリーのおかげでステージに立てた。夢のようです」と感謝の言葉を繰り返した。

岸部シローも登場…「ザ・タイガース」解散の地で再集結

 
沢田研二(63)の全国ツアー最終公演が24日、日本武道館で開催された。41年前のこの日に解散公演を行った「ザ・タイガース」の後期メンバーが集合。

 ツアーメンバーの瞳みのる(65)、森本太郎(64)、岸部一徳(65)に加え、ゲストで岸部シロー(62)も登場。03年に患った脳内出血の後遺症は残るが、ジュリーは「肉体的にも精神的にも落ち込んでいたが、ここまで来てくれる気力が戻ってきた」と紹介。一徳に体を支えられてステージに上がり、か弱い声でビージーズの曲「若葉のころ」を歌った。「ステージに立てたのは全部ジュリーのおかげ」と感謝し、約1万3000人の喝采を浴びた。

 岸部シロー(左から2人目)のトークに爆笑する岸部一徳(左)、沢田研二(同3人目)、森本太郎(同4人目)、瞳みのる(右端)=日本武道館(撮影・三好信也)

 GSブームを支えたザ・タイガースの後期メンバーが、1971年1月24日の解散から41年となった24日、ラストコンサートを行った東京・日本武道館に勢ぞろいした。

 歌手・沢田研二の全国ツアー最終公演で、森本太郎、岸部一德、瞳みのるに加え、69年からバンドに加わった岸部シローがゲスト出演した。

 98年に患った脳梗塞の後遺症で歩行困難のシローが兄・一德に両脇を抱えられ、ステージに登場すると、ファン1万3000人はすすり泣き。シローは「こんなステージに立てるなんて、夢のよう。すべてジュリーのおかげや」と涙し、ビージーズのカバー「若葉のころ」をつぶやくように披露した。

 沢田は「命ある限り、全員そろってタイガース。近い将来、もう一度全員でやります」と“完全復活”を宣言した。

(2012年1月25日)
 


ザ・タイガース再結成!岸部四郎も参加

 歌手沢田研二(63)とザ・タイガースのメンバーが共演した全国ツアーの日本武道館公演が24日に行われた。40年ぶりの「再結成」ツアーは、昨年9月からスタート。全国38カ所で約9万人を動員した。この日は元メンバー岸部四郎(62)が初めて参加。岸部は「全部ジュリーのおかげでステージに立てた。夢のようです」と話した。

岸部シロー“盟友”ジュリーのコンサートに登場

2012.1.25 05:02

 歌手の沢田研二(63)が24日、東京・日本武道館でタイガース時代の同僚、瞳みのる(65)、森本太郎(64)、岸部一徳(65)とまわった全国ツアーを打ち上げた。

 この日は特別ゲストとして後期メンバーの岸部シロー(62)も登場。2003年に患った脳梗塞の後遺症で歩行困難になったシローだが、兄の一徳の手を借りて歩いて登壇すると、会場の1万3000人は拍手で迎えた。

 沢田が「精神的にも肉体的にも落ち込んでいましたが、ここまで戻ってきてくれた」と紹介すると、シローは「ステージに上れるのは全部ジュリーのおかげ。夢のよう」と感謝し、ソロボーカル曲「若葉のころ」を英語で熱唱。客席からは、すすり泣く声がもれた。

 沢田は「命のある限り全員そろってのタイガース。ぼくも63歳。シローはあの状態ですから、近い将来、実現したい」と中途脱退した加橋かつみ(63)を含むフルメンバーの再会を約束した。

2012年1月19日

美しい男 - 歳月なんてものは

請不要誤會,此人絕不是標題所說的美男。

不久前說過久世光彥 乃是 一位愛慕Julie 的製作人,皆因一本結集了他刊登在報紙雜誌的散文的書"歳月なんてものは"有一篇寫JULIE 的叫"美しい男",簡直是一篇公開的情書。我試著譯:

早前在排練室為JULIE慶祝生日,也不知他幾多歲,對我來說,他多大也沒有關係。那感覺,坦白說,是有著同性戀的味道。我是心理有數的,旁人看著也許便察覺到,但那也沒關係。只是那天有公演也不好讓氣氛過於性感,我故意不叫他JULIE而只稱呼他"沢田",因JULIE 是女性的名字。

一星期前,為719日起在Theater cocoon上演的"沢田.志村の「さあ、せ!」"排練。雖有著危險的標題,查實是由他倆演出滿載笑料的音樂劇。我最喜歡笑,就算是過份的也喜愛。…(之後省去300字乃久世拋書包列舉他看過的喜劇…)因此,今次有份演出沢田.志村的劇,十分開心,更何況這個半月,每天都能與我愛的JULIE 見面呢。

有著"運之女"的同時,也有所謂"命運之男"。我想能夠為這個男子死也願意的,這男子定是美麗的。如今不可置信地,說起命運之女和命運之男,每每我都不其然地掛上微笑。在我的夢想中,是會毫不猶豫地揀選與他一起滅亡罷?我相信他是有這樣的潛能的。到目前為止,我遇見過的美男子,以年代排行的話,有丸山臣吾(美輪明宏)、沢田研二、本木雅宏三個。最初遇上JULIE,是昭和50(1975),拍攝惡魔樣的傢伙的那年。那是與當年秋天"三億事件"時效同步進行的一齣電視劇,JULIE飾演其中的犯人,此劇亦因JULIE與包庇他的前警視滕也的關係曖昧而著稱,收視慘澹,剩下的便只有JULIE 的幻影與及"任意讓時光消逝"這歌。雖然如此,我也很滿足了,只因JULIE是那樣的美麗。

之後拍攝的"源氏物語",也是我不會忘記的。飾演光源氏的當然是JULIEJULIE像是一頭黑色怪鳥般振起翅膀降服眾女,雙目有如瑪瑙般炯炯有神,唇有如桃花般輕柔地綻放。雖然一直以來有很多人演過光源氏,但沒一個及得上JULIE 的美麗,這是我引以為傲的。

所以如今我很感滿足,因每天都能心跳加速。戲劇的世界真是美好,就是這把年紀,仍能像年青一般的心動。能偷看著JULIE 的則面,聽著自身因悸動而高鳴的心,一邊死去的話,無論怎樣,我是幸福的罷?



這篇情書該是寫在2003年,正是「さあ、せ!」公演那年。我第一次去日本看JULIE時,便買了這劇的VHS回來。以下連結是我節錄該劇的一些片段:

さあ、殺せ!の仮装
TOKIO in さあ 殺せ
明日は晴れる in さあ 殺せ

2012年1月18日

NHK SONGS -沢田研二 ザ.タイガースを歌う 一月十八日

 
剛在網上看完NHK為四虎播的SONGS特輯,他們一共唱了5首歌,穿插著四虎的真情對話。要說瞳,就不能不說SONGS。事源在2008年NHK為JULIE 同樣製作了SONGS特輯,一方面是宣傳還曆巨蛋演唱會,一方面岸部一德,森本太郎及JULIE 也乘機發表掛念宣言,介紹了LONG GOOD-BY的背後意思,感動了瞳。

NHK SONGS 沢田研二特集

今次沒有特別作曲給加橋,但也由JULIE 親口說有加橋及四郎的才算是TIGERS 復活。我想要收到的人總會收到。要TIGERS永遠不能復活的,總之,絕不是JULIE 啦。

http://www.nhk.or.jp/songs/archive/120118.html
songs 1-18

2011年12月19日

久世光彥 - 一位愛慕Julie 的製作人

很久之前寫過惡魔樣的傢伙觀後感,其中提過:

"良嘅招牌打扮係吊帶+派拉蒙帽,非常有型,不但成為當年日本型男嘅指定裝扮,仲吸引到老板、老板情婦、老友嘅老婆、阿妹嘅看護、三唔識七嘅女電單車手、傻婆等等,同佢上床噢,SORRY,老板除外。不過有一幕,都安排咗藤竜也同佢打交打到撕爛晒D衫,滿足哂一眾基族嘅遐想,總算有所交待。"

無字幕的惡魔樣的傢伙,其實真係睇得半明不白,而且自己亦沒有此劇班底的背景資料,只憑雙眼觀察,也能瞧出基味。我一直以為,那個愛穿背心戴黑超的導演長谷川和彥是幕後黑手。但原來......


今年十月,久世光彥著的一本書歳月なんてものは出版,內裏有一小篇寫Julie 的文章被tomo放上網,引起我的好奇。久世光彥是何許人呢?只談同Julie有關的,他在TBS年代製作了寺内貫太郎一家悪魔のようなあいつ。除此之外,也演出過源氏物語、音楽劇 沢田・志村の『さあ、殺せ!』、歌劇 人情酸漿蛍及音楽劇 センセイの鞄。

寺内貫太郎一家最為人津津樂道的便是樹木希林扭身大叫"ジュリー~~~~"的場面。她這樣的一叫,Julie順理成章的成為全日本女人的偶像,這想必是久世光彥的主意,因為我認為最渴望這樣尖叫的人其實是他。為甚麼我會這樣認為呢?

久世光彥的維基中特別提到,他曾經說過是因為Julie的原故,他才繼續做現在的工作,又說他始終覺得Julie 是非比尋常的,以至在TBS年代試過同Julie二人共乘電梯時,會感到緊張與及時間特別長。

沢田研二の存在があるからこそ現在の仕事を続けている」と語っていたこともあり、沢田への思い入れは並々ならないものがあった。TBS時代には、沢田とエレベーターに2人で乗ると、緊張して乗っている時間が長く感じたとも語っている。

這與我想像之中,和Julie 相遇時我的表現相同,這簡直就是單戀一個人的心理表現。
此外,這本歳月なんてものは內,就有很多蛛絲馬跡,這有待我下回分解。

以上所有,都是反肚貓我的猜測,與事實可以是兩回事,不過久世光彥都已經死左,無得反駁!

2011年11月30日

ロックンローラー 内田裕也さん(番外編4)

ロックンローラー 内田裕也さん(番外編4)

加瀨同內田裕也於渡邊年代有過些過節,以至加瀨曾經鬧過內田「てめえ、ばかやろう」。沒有共事差不多40年,直到2009年,內田裕也快70歲,內田說要同Julie重溫美夢,搞個ROCK Concert 過癮下。Julie再三遊說加瀨,說成個日本只得他稱職,為這個演唱會做製作,加瀨才答應的。加瀨說,Julie因為感謝內田把Tigers從京都帶出黎東京,所以點都要滿足內田這個願望。加瀨形容Julie用"義理堅い", 單看漢字,都明解。

2009年2月,咪就係這個”きめてやる今夜”。

僕と内田裕也さんとは長いつきあいになります。

 最初にあいさつしたのは1963年(昭和38年)、スパイダースを脱走してブルージーンズに加わった夜のことです。

 リーダーの寺内タケシさんは楽屋で僕をメンバーに紹介してくれた。ボーカルの内田さんは上目遣いに僕をじろっと見ました。前から怖そうな人だと思っていたので、僕は「よろしくお願いします」と頭を下げたんですが、その時のことはすごく覚えています。

 内田さんは当時から今みたいな感じでした。寺内さんともよくけんかしていた。音楽はビートルズのようなものより、ロックぽいものが好きでしたね。。

 ステージでのトークはすごく面白かった。僕を漫才の相方のように使い、しょっちゅう話を振ってきました。彼のステージ運びは僕の財産になりました。

 その後も内田さんとはいろいろありました。

 寺内さんがブルージーンズを脱退した後、渡辺プロダクションの会議で、僕は担当の部長から「リーダーになれ」と言われた。

 その時、内田さんが突然こう言い出したんです。

 「加瀬と俺はやめて一緒にバンドを作ります」

 驚いた部長は「加瀬、おまえ本当なのか」と僕をにらみつけました。

 確かに、その1か月ほど前に内田さんと飲んだ時、「そのうちバンドをやろうぜ」みたいなことを言われたことはあった。でも具体的な話は何もなかった。

 それで「何も決めてません」と答えると、今度は内田さんが怒り出した。

 「加瀬、この野郎。やるって言っただろう」

 険悪なムードになりました。結局、部長が「いま解散するわけにはいかない」と言い、2人ともブルージーンズに残ることになりましたが、内田さんは僕と一緒にやってみたい気持ちがあったんでしょうね。

 久しぶりに一緒に仕事をしたのは3年前です。

 内田さんは2008年11月に69歳になりました。以前から「俺はロックだから69になったらライブをやるぜ」と言っていた。僕は「いいじゃないですか」と聞き流していた。全く忘れていました。

 そしたらジュリー(沢田研二さん)から電話があって「お願いがある」という。内田さんが69になったらライブを一緒にやると約束してしまった、そのプロデュースしてほしいと。

 内田さんは京都にいたジュリーたちを東京に連れてきてデビューさせた。義理堅いジュリーはその恩義を感じていたんでしょう。

 でも僕は「悪いけど」と断りました。内田さんに「てめえ、ばかやろう」なんて言われてまで今更仕事はしたくなかったんです。

 それでジュリーには「2人で考えてやればいいじゃない」と言いました。

 ところが翌日、ジュリーからまた電話があった。

 「昨日の夜考えたんだけど、日本中さがしてもやっぱり加瀬さんしかいないんです。僕と内田さん、この2人をやれるのは。お願いだから、やって下さい」

 そこまで言われたら断れませんよね。

 僕がステージの構成と演出をした2人のライブは09年2月、東京の渋谷と内田さんの故郷の神戸で1回ずつ行われました。

 プロデュースの仕事はとても楽しかったですよ。

 

2011年11月25日

再幾篇岸部四郎的消息


咁多篇,我地最關心既係,四郎申明他想1/24出席武道館,希望能從台邊行到台中間,於是要學戲中(Hobo with shortgun) 既主角咁,心懷目標前進。

ジャパニーズ・ホーボー岸部四郎!「ショットガンをぶっ放すところが良いね」


Q・タランティーノ&R・ロドリゲスの両監督によるグラインドハウス映画『デスプルーフ』&『プラネットテラー』。その北米公開時に開催された「フェイク予告編コンテスト」から生まれた映画、それが『ホーボー・ウィズ・ショットガン』だ。フェイク予告編から映画化、の流れといえば『マチェーテ』が記憶に新しいが、本作はその系譜を継ぐグラインドハウス映画第2弾なのだ!


そんな『ホーボー・ウィズ・ショットガン』の公開にちなみ都内某所で一般試写会開催された。そこで公の場は半年ぶりという岸部四郎氏(62)のトークイベントが行われたのだが、司会者に「ジャパニーズ・ホーボー!」と呼び込まれ登場した岸部氏は、まさかの車イス姿。のっけから会場をどよめかせたが、なぜ車イスなのか?と問われると「どうも自律神経かなんかの関係で足が動かなくて……」とムニャムニャ。本作の主演であるルトガー・ハウアーについても『ブレードランナー』を観た記憶はあるが全く知らない、といつにも増してうすボンヤリなトークで会場の笑いを誘った。

その後のトークでは、この映画で好きなシーンは?と質問され「やはりショットガンをぶっ放すところが良いですねえ……」と答えた岸部氏。しかし本作はどんな映画だと思うか?との問いにも「やはりショットガンをぶっ放すところが……」と繰り返し、司会者に「あの……ちゃんと観ました?」と突っ込まれる始末。そして「この映画の主人公のように最近ブチキレた事は?」との質問には「最近どうも便秘気味だったんですが……やっとブチキレて……出ました」と、脱力系な下ネタで返した。

さらに劇中でルトガー・ハウアーが若い女性と交流するシーンに話が及び、ここのところ芸能界でも歳の差婚が相次いでいるが岸部さんは?と聞かれると「ほら、カトちゃんやマチャアキはお金があるから……僕はお金持ってないですから、若い女性とは無理ですよ……」と後ろ向き発言。しかし再婚するとしたら?と女性の理想年齢を聞かれると「……26歳とか」と答え、司会者の「その気、ありまくりじゃないですか!」というツッコみに会場は爆笑に包まれた

ここ2年ほど働いておらず、最近はデイサロン(いわゆる老人ホーム)に通うことが多くなったと語る岸部氏。仕事のことを考えると恐怖感で身体が硬直してしまい、今後の計画も白紙だという。だがここにきて沢田研二氏のコンサートへの参加や、ザ・タイガース復活も噂されているのだから、ぜひとも本作の主人公であるホーボー(流れ者・根無し草)に倣い“心のショットガン”を構え、一念発起してもらいたいものである。

映画『ホーボー・ウィズ・ショットガン』は11月26日より全国公開

車椅子で登場 岸部四郎“ザ・タイガース再結成”参加に意欲

タレント岸部四郎(62)が22日、都内で米映画「ホーボー・ウィズ・ショットガン」(26日公開)のトークショーに出席し、ザ・タイガース再結成に参加したい意向を語った。

 すでに沢田研二(63)と会い「開催中のツアーの最終公演(来年1月24日)に呼ばれた」という。同ツアーには瞳みのる(65)森本太郎(64)岸部一徳(64)がゲスト出演しており、加橋かつみ(63)がいないながらも、岸部が参加すればザ・タイガースの復活に近い形になる。

 この日は車椅子で登場し「舞台の袖から真ん中ぐらいまでは歩きたい」と岸部。マネジャーによると、脳梗塞の後遺症による視野狭窄(きょうさく)で「歩くことがおっくうになっている」という。

岸部四郎、車いすで登壇…タイガース再結成は「状況が悪い」
タレントの岸部四郎(62)が22日、都内のイベントに出席。03年に患った脳梗塞によって視野が徐々に狭くなり、歩行困難なため車いすで登壇した。

 やつれた様子の岸部は「足が動かなくて原因も不明。もうダメなんです」と終始後ろ向きな発言。日によって歩ける日もあるというが現在は週2回のペースで足のリハビリ、週1回の訪問介護などを受けているという。

 この日の米映画「ホーボー・ウィズ・ショットガン」のイベントが約半年ぶりの仕事。所属事務所によれば、07年に妻・小緒理(さおり)さんを亡くしてからふさぎ込みがちになったという。

 来年1月の「ザ・タイガース」再結成をボーカルの沢田研二(63)から打診されているそうだが「実現するかもしれないけど、状況が悪い。歩けるようにならないと」と歯切れが悪かった。

岸部四郎ゲッソリ車いす 脳こうそく後遺症

タレントの岸部四郎(62)が22日、都内で行われた映画「ホーボー・ウィズ・ショットガン」(26日公開)のトークショーに車いすで登場した。

 以前より顔もやせ細り、「足が動かなくて困ってるんです。原因がちっとも分からなくて…」と弱々しい声であいさつ。仕事は8月のテレビ出演以来といい、「仕事がおっくうで…。仕事に行くと、先に悪い結果を予測して恐怖にかられるんです」と打ち明けた。関係者によると、03年に患った脳こうそくの後遺症で視野狭さくになり、歩行困難の傾向があるというが、日常生活で車いすは使用していないという。

 この日はネガティブな発言が続いたが、明るい話題も。来年1月24日に行われるザ・タイガース時代の同僚、沢田研二(63)のコンサートへの出演に意欲を見せており、「せめて(舞台の)袖から真ん中まで、歩きたいです」と前向きに話した。

週刊女性12/6 號








相信大家都從xina處見識了加橋的刁翹扭擰與矛盾。大家可以拭目以待,睇下佢會晤會出現1/24 武道館?

我從其他blog度,睇到呢篇報導的其他瑣事,不妨節錄如下:

  • 這乃是2003年EIKO造型的Julie。
  • 要記著這篇東西並不曾訪問過Julie,話Julie 唔鐘意傳媒,所以內容都是其他人所說或推測的。
  • 從"澤田夫婦"友人口中,知道夫婦感情很好,經常一起散步。
  • halloween 當晚從五點起,就有唔少嘩鬼去佢屋企攞糖,有成千人咁話!
  • Tigers 已不只是對音樂界有影響力,已經是一種社會現象。
  • 瞳在今次巡唱中,受歡迎度僅次於Julie。
  • 熟悉唱片公司的人話,其實從花之首飾加橋第一次主唱Tigers的歌開始,兩人在音樂上的分歧已經表面化的了。
  • 從認識Julie及加橋的樂師口中得悉,1989年同窗會出席紅白那時,加橋已經唔妥Julie同d 工作人員喇。
***
加橋11/18的訪問好短:

★(1月の武道館には)
間接的にオファーは聞いてるけど、興味ありません。

★(ピーが復帰してメンバー全員そろうのをファンは期待しているが…)
僕もぜひともやってみたいよ。

★タイガースとして出たくない…という意味じゃない。でも話せないよ。

★ジュリーとは直接連絡はとってない。
連絡があっても出ない。長いこと音楽をやってるといろいろあるんだよ。
理由は申せません。
わだかまりがあるわけじゃない。

***
至於四郎就好落力的做治療,但Sally 就唔想個細佬以咁既狀態現身,看來Julie要好好說服Sally云云。

***
我要情商我妹妹借出姨甥仔,俾我特訓佢數月,要佢適應長征,咁我就可以喺下年Halloween拖佢去山手區度攞糖。

2011年11月23日

幾則岸部四郎的消息

看樣子真令人擔心,不過JULIE 講過,就算只是上台現下身,都希望四郎可以出席1/24武道館。如果四郎連這個電影宣傳活動都出席,沒有理由不現身1/24武道館的,但願他好好保重。

現在只差加橋一個。

岸部四郎、車椅子で半年ぶり公の場 タイガース復活「実現するかも」
(岸部四郎半年來首次坐輪椅現身公開場合,TIGERS也許真能復活)

オリコン 11月22日(火)20時30分配信

 俳優の岸部四郎(62)が22日、都内で行われた映画『ホーボー・ウィズ・ショットガン』のトークイベントに車椅子で出席した。「足の筋力の衰え」が理由といい、普段は自力で歩けるものの「今、足の状態が悪いんですよ。スタスタ歩ける時もあるけど、今日はね…」など弱音発言を連発。かつて在籍したザ・タイガースの復活報道にも触れ「沢田(研二)さんが熱心に進めてる。もしかしたら、実現するかも。そうしたら、僕がまず元気にならないとね」と期待感をあおった。

【アップショット】ショットガン片手に作品をPR

 伝説のグループサウンズ、ザ・タイガースといえば、今年9月に沢田の全国ツアー初日公演で、メンバーだった岸部一徳、瞳みのる、森本太郎が駆けつける“復活劇”が注目されたばかり。岸部は、来年1月24日(火)に東京・日本武道館で開催される沢田のツアー最終公演に声をかけられていることを明かし「『四郎を出す』と言ってるから、どうしようかなって思ってる。それまでには歩きたいね」と語った。

 車椅子に乗っての登場で会場を驚かせた岸部は「どうもね、足が動かなくて困ってるんですよ。原因がわからなくて困ってる」とポツリ。2003年に患った脳梗塞の後遺症で視野狭窄(しやきょうさく)になり、歩くのが面倒になったことが原因で筋力が低下してからは、一人で歩くのが大変な作業になったという。

 半年ぶりの公の場だったが、岸部のボヤキ節は止まらず「結婚を考えてるんだけど、お金がない。理想は26歳くらい(の女性)だけど、惚れてもらうことはない。要はお金がないからね」。過去の自己破産ネタを自虐的に語り「今日はギャラがあるのか心配」とつぶやいていた。

 初老のホーボー(ルトガー・ハウアー)が、犯罪組織のボス・ドレイクが牛耳る暴力と混沌に支配された街に降り立ち、悪に立ち向かうべくショットガンを打ちまくるというバイオレンスアクション作『ホーボー・ウィズ・ショットガン』は、11月26日(土)より公開。


岸部四郎、車椅子で半年ぶりに登場「元気にならないと」
(岸部四郎半年來首次坐輪椅現身公開場合,精神麻麻)

[映画.com ニュース] タレントで俳優の岸部四郎が11月22日、映画「ホーボー・ウィズ・ショットガン」の試写会にトークゲストとして出席。およそ半年ぶりの公の場で自らの近況について報告した。夏ごろにBS11で放送中のトークバラエティ「本番前@控室」の収録に参加して以来の仕事だという岸部は、以前より痩せ細った姿で「足が動かなくて……」と車いすで登場。岸部のマネージャーによると、10年ほど前に患った脳梗塞の後遺症で視野狭さくとなり、歩くのに時間を要するため、今回は車いすを使用しただけで、普段は歩いているという。

具体的に病気を患っているわけではないというが、当人はかなり弱気で「いまはほとんど無職」「仕事に億劫になってしまい、『できないんじゃないか?』という予期不安に襲われる」とポツリポツリと明かした。最近は訪問介護を受けたり、トレーナーを招いてリハビリのための筋トレを自宅で行う日々だそう。「(老人たちの憩いの場である)デイサロンに行くこともあるけど、相手は年配の方ばかりで話題も合わないから……。早く元気にならないといけない」と自らに語りかけるように言葉をつないだ。

2007年には再婚した妻を亡くしている岸部だが、最近、芸能界でも“年の差婚”が話題となっていることもあり、司会者から再々婚は? という質問も。「考えてはいるけどお金がないからね。加藤茶とかマチャアキ(堺正章)はお金があるから」と言いつつ「理想は26歳くらい」と語り笑いを誘っていた。

岸部も元メンバーで、沢田研二や実兄の岸部一徳を中心にかつて一世を風靡したグループサウンズの「ザ・タイガース」復活に向けた動きも活発化している。現在、沢田は全国ツアー中で、瞳みのる森本太郎岸部一徳らかつてのメンバーもツアーに参加しており、岸部はリハーサルの見学に訪れ、そこで沢田と「35年ぶりくらい」(岸部)となる再会を果たしたという。「来年の1月24日がジュリー(沢田)のショーの最終日で、ジュリーは『それにシローを出す』って言ってるからどう出るかな……。まず第一に元気にならないといけない」と意欲をのぞかせていた。

映画はフェイク予告編コンテストに出品された作品を基に「ブレードランナー」などで知られるルトガー・ハウアーを主演に迎えて製作。街から街へとさすらう初老のホーボー(流れ者・放浪者)が、立ち寄ったある街にはびこる悪をことごとく退治すべく、ショットガンを手に暴れまくるさまを描く。
芸能界を放浪する“ジャパニーズ・ホーボー”としてゲストに呼ばれた岸部は、映画について「ショットガンを撃つとこが面白かった」とざっくりしたコメントを連発し、客席は笑いに包まれた。


金も女性もない…岸部四郎、オーラ暗すぎ
(無女無錢 岸部四郎氣色一片暗澹)

ザ・タイガースのタレント岸部四郎(62)が22日、都内で開催された米映画「ホーボー・ウィズ・ショットガン」(26日公開)の試写会にゲスト出演した。公の場に登場するのは約半年ぶりという岸部は、車椅子で登場。ホーボー(流れ者)にちなみ、「ジャパニーズ・ホーボー」として招かれた。
 岸部は最近、数十年ぶりに話したという同じ元タイガースの沢田研二から、来年1月24日の沢田の全国ツアー最終公演に呼ばれ、タイガース再結成をすすめられていることを明かし「再結成? もしかしたら実現するかもしれない。まず元気にならないと。(舞台で)せめては歩きたい」と意欲をみせた。
 普段はスタスタ歩けるが、自律神経や精神の状態が悪いと足が動かなくなるという症状があるため、この日はあえて車椅子を使用。07年に妻が急逝してからは独身。最近、芸能界で年の差婚が相次いでいることを聞かれると「結婚は考えてますが、ボクはお金がないから女性がつかないですよ。加藤茶さんやマチャアキ(堺正章)さんはお金持ってるから」。しかし、再婚相手の理想の年齢を聞かれると「26歳」と答え、再婚への意思をのぞかせた。
 最近「ほとんど無職。仕事の計画はないです」という岸部だが「早く元気にならないとダメですね」とも話し、筋トレを週2回、ストレッチやウオーキングを週1回始めるなど“復活”を目指し、取り組んでいることも明かした。試写会を終えた岸部は、報道陣に「(試写会出演の)ギャラはあるんだろうか? それが心配です」と話し、笑わせた。
 [2011年11月22日21時34分]

60代のコラボ(番外編2)


60代のコラボ(番外編2)



Julie問加瀨「咩野夢想呀?」加瀨話要「攞ORICON流行榜第一位囉。」「得咩?」「Wild Ones夾Julie一齊出碟咪得囉!」「當真?」「我覺得絕對有趣播!」一齊出碟,一齊全國巡唱,就是Julie d fans 都話好,加瀨覺得全人類都會驚訝。後來,Julie 就應承咗喇。
加瀨希望隻主打歌由五人一邊唱一邊跳,Julie 都有抗議過,話為乜要搵d最唔拿手既野黎做嗟?但加瀨答佢話咁唔好咩?雖然五個60代男人跳得一d都唔及Exile,無型兼有違常理,不過都盡力去做,當今同年紀或年青人都很少有咁既精神。加瀨就係咁,說服了Julie。(我理解為"以一生懸命既精神做好榜樣!"是Julie應允的主要原因。Julieeee~~~真不愧是我的教主。)

於是2010年二月Julie with the wild ones 出了"渚でシャララ”, 再全國30處地點巡迴演唱。後來"渚でシャララ”雖然攞唔到ORICON流行榜第一位,加瀨覺得這仍是有一定的影響力,都算成功的。

今年Julie 同3虎的巡迴演唱,加瀨相信Julie是抱著"連與wild ones 都有試過,怎能不與tigers一起巡迴演唱呢?" 的心態的。加瀨覺得Julie仍然有"色氣"(當然!)、歌藝、樣貌,仲有一種Julie 不自覺的天生的光華,再就是那種帶有"毒"的可怕的魅力,人們難免被吸引。

Julie 因為無現身電視,也許有人會以為他早已退下來。但其實每年他都有出新歌,巡唱,演話劇/歌劇,生活得十分充實呢。


ジュリーの還暦記念コンサートの数日後、僕が「もう一つの夢」の話をすると彼は驚いたようでした。

 「えっ何の夢ですか」
 「オリコンで1位を取るんだよ」
 「そんなことできるんですか」
 「ワイルドワンズとジュリーでCD出すんだ」
 「本当ですか」
 「絶対面白いと思うよ」

 一緒にCDを出し、全国ツアーもやる。ジュリーだけの方がいいというファンもいるかもしれない。でも世間はきっと面白がってくれると思うよって。

 そしたらジュリーは「やりましょう」と言ってくれた。

 シングルについてはジュリーとワイルドワンズの5人で歌いながら踊る曲にしたいと話しました。

 彼は「なぜ僕たちが一番苦手なことをするんですか」と言う。僕は「だからいいんじゃない」と。

 60代の男5人が踊る。EXILE(エグザイル)みたいにうまくはない。かっこよくもない。そんなことできるわけがない。だけど、一生懸命やるのがいいんだ。同世代の人も若い人も、あの年になってよくやるな、って思ってくれる。それがいいんだよって。

 ジュリーは「わかりました」と受け入れてくれました。

 それが2010年(平成22年)2月に発売したジュリー with ザ・ワイルドワンズの初のシングル「渚でシャララ」です。その後、全国30か所をまわるツアーも行いました。

 残念ながら、オリコンで1位にはならなかった。けれど、ある程度インパクトは与えられたし、ツアーも成功したと思う。

 ジュリーは普通だったら振り付けて踊るなんて絶対断りますよ。「わしゃやらん、絶対やらん」って。

 でも「しょうがないよ、加瀬さんが言うんだから」と受け入れてくれたと思う。うれしかったですね。

 そして今年、ジュリーはタイガース時代の岸辺一徳、森本太郎、瞳みのるを入れて4人でステージに立っています。ワイルドワンズとやったんだからタイガースでも、と思ったんだじゃないかなあ。

 ジュリーは今でも色気がある。すごくあります。

 前も言ったように、歌がうまいとか、ルックスがいいとかだけでなく、彼には自分も気づいていない持って生まれた華がある。そして、何か怖いと思わせるような毒気もある。そこに人は吸い寄せられていく。

 だからタイガース時代でも、ソロになってからでも、ジュリーを好きになったファンは、今でもステージやお芝居を見に行く。

 それと義理や人情に厚い人間性もある。そういういろんな部分を併せ持っていたから彼はスターであり続けていると思うんです。

 今はテレビにあまり出ないからジュリーはもうやってないと思う人もいるかもしれない。でも毎年、コンサートツアーをやっている。CDも出してる。芝居もやっている。彼なりのいき方で十分にやっている。

「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」の「渚でシャララ」が視聴できます。
http://show.yomiuri.co.jp/special/jidai/movie19.htm

要聽加瀨的一番"Julie有著有毒的魅力"的說話:

ジュリーの魅力について語る加瀬邦彦さんのインタビューが視聴できます。
http://show.yomiuri.co.jp/special/jidai/movie18.htm

2011年11月22日

チャレンジャーのジュリー(番外編1)


チャレンジャーのジュリー(番外編1)


加瀨的時代的証言又翻轉頭講翻Julie,讀賣新聞好清楚d讀者係想睇d乜囉。
去年JULIE 與The Wild Ones 作全國30處巡迴演出,始源要講翻2006年The Wild Ones 喺武道館作出道45周年記念演唱會,當中有一大概30分鐘時段,以Julie作為The Wild Ones隊員形式唱一堆雜錦歌。Julie 真係唔話得,尤其是佢係典型老式日本人,好講義理人情,也許有唔想唱既歌,都落力幫手。其實加瀨知道Julie內心都幾擔心有無一萬個觀眾去坐滿武道館架。好彩又有Julie幫手,那天全場滿座。之後,輪到Julie快60歲,他自己也想做一些特別的事來慶祝還曆,於是便決定在東京Dome 及大阪京セラーDome 作還曆記念演唱會。事前,加瀨勸佢唔好勉強,但Julie話要接受呢個挑戰,所以加瀨無再多說。
京セラーDome 演出後,加瀨立即打電話給Julie,一接電話Julie就說:「開到聲呀!」加瀨都十分驚奇的說:「係播!」
(原來當年Julie 不是擔心賣唔賣到飛,最憂慮的是6個半小時中能否唱出水準! Julie是真正的Pro,最有良心的歌手!我一直都說,2008年的還曆演唱,是Julie之前數年來最好的,尤其與2007年比,就會很覺得那分別。)
四天後在東京Dome的演唱加瀨也有去看,親耳聽到Julie 唱到最後把聲都係咁正,不禁心裏讚嘆,佩服Julie是個永遠向前的人。
數天後,加瀨同Julie喺銀座食飯時,套用Julie在還曆演唱會說的一番話,一邊讚Julie之餘,一邊叫Julie 助佢完成多一個夢想。

ジュリー(沢田研二さん)とは昨年、「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」というグループを作り、全国30か所を回りました。

 その遠いきっかけになったのは2006年(平成18年)にワイルドワンズが武道館で行った結成45周年のコンサートでした。

 僕たちはゲスト出演してくれたジュリーと一緒に〈もしもジュリーがワイルドワンズのメンバーだったら〉というコーナーを作り、約30分間、メドレーとかいろいろやりました。

 ジュリーはすごく協力してくれた。頑張ってくれた。前も話しましたが、彼は昔かたぎの日本人。義理人情にすごく厚いんです。

 僕にはいろいろと恩義を感じていてくれたのだと思う。全部言うことを聞いてくれました。歌いたくない歌もあったかもしれない。でも何も言わずに一生懸命やってくれたんです。

 ジュリーは内心では、ワイルドワンズが武道館でライブをやることに結構心配していたと思う。本当にお客さんは1万人も入るのかなって。でもジュリーの協力もあり、満員になってすごく盛り上がった。

 ジュリーはその後、自分が還暦になった時にはもっとすごいことをやろうと思ったんじゃないかなあ。

 それが2008年、60歳の時に東京ドームと京セラドームでやった還暦記念コンサートにつながったと思うんです。

 ドームのライブでは6時間半くらいかけて80曲も歌うことになっていた。

 僕はライブの前に「無理しない方がいいんじゃない」と話しました。でもジュリーは「チャレンジです」って言う。そこまで言うのなら、と思いました

 京セラドームのライブが終わった後、僕はすぐ電話をして、「声出るの」と聞いた。そしたら「うん出ますよ、いま電話でちゃんと話してるでしょ」って。僕は「ほんとだね、出るねえ」と驚きました。
 その4日後に東京ドームのライブがありました。僕も見に行ったんですが、最後までどんどん声が出てくる。「すごいなあ」と思いましたね。ジュリーは本当に頑張り屋で、いくつになっても前を向いている。

  そして、次はジュリーと一緒にやってみたいな、と思ったんです。

 東京ドームが終わった数日後、僕は銀座でジュリーと食事をしました。
 僕は「すごいね、やっぱりジュリーはチャレンジャーだ。よくあそこまでやったと思うよ」と言った。

 僕は彼が東京ドームのステージで「僕は夢を見る人間じゃありません、皆さんが僕に夢を見せてくれたんです」って言ったのがすごく印象に残っていた。
 へぇー、夢を見ないのか。僕はいつも夢ばかり見て、こうなりたい、ああなりたいと思っているのにと。

 それで食事をした時にこう言ったんです
 「ジュリー、もう一つ夢を見させてあげようか

◆武道館コンサートでの演奏が視聴できます。
「想い出の渚」http://show.yomiuri.co.jp/special/jidai/movie22.htm
「愛するアニタ」 http://show.yomiuri.co.jp/special/jidai/movie15.htm
 

超喜愛的一幅相


兄弟情表露無遺!
Julie 同Sally 笑得多開心,雖看不見太郎個表情,但看到他右手腕上的黃膠帶,顯然眾心一致啦。


瞳的blog報告了11/18 岡山同11/19京都的行程。他說11/18日未調音之前,Julie 在散步中搵定地方晚上食飯。那天森本太郎生日,但太郎演唱會一完便坐新幹線入京都同朋友慶祝,於是晚飯得Julie,Sally,瞳同一位朋友TN四人。前菜係針イカ(墨魚的一種)同わけぎの酢みそ和え(類似用麵豉醬的荵沙律)。跟著食蒸し鮑の肝和え(蒸肝汁鮮鮑),瞳說那個肝汁同法國菜的肝汁類似,好味到不得了。瞳說他不愛牛油,師傅於是用白味噌代替,兩種汁都非常美味,好味到要連碟都舔乾淨埋!再來便是大振りな蒸したワタリガニ(當地蒸大蟹),然後是刺身,有鰆、鳥貝、瀬戸内海の鯛。燒鰻魚就清清地,唔係太多醬油好好味。最後係海鮮烏冬,有蠔同マルハギ。埋單承惠每位¥5000, Julie 請客!
照以上的形容,好岩我食!Julie 唔請我,我都會設法巢呢間料理屋出黎去食一次!
Darlingching,照說你中了調虎離山之計!如果當天你無跟瞳sir 遊花園,下個現身的該是Julie呀!你回憶下岡山會場附近有無呢間出名料理丫,瞳sir 話smap 同嵐都有去過架。

http://www.hitomiminoru.com/message/index.html#okayamakyoto

我以岡山市民會作中心點,用google搵到幾間有可能的食肆,不過照看Julie 散步也不會揀人口密集的地方。你地估如果寫email 去問瞳sir,佢會唔會答呢?
http://maps.google.com/maps/ms?msid=208331615838981968128.0004b24753d91d9f67eff&msa=0&ll=34.665423,133.930689&spn=0.006583,0.009602

2011年11月13日

化粧もヌードも男性初

化粧もヌードも男性初


加瀨一共做了13年 JULIE 的Producer。負責Julie服飾的(大家都知)是早川タケジ,Tokio 的降落傘,Oh!Gal 既女性化化粧,都是同早川商量過下決定的。當時為Parco做廣告的石岡瑛子將Julie新的魅力引發出黎(水之皮膚)。男性流行歌手而採用女性化粧與及拍裸體寫真,Julie算是第一個。1978年5月Julie參與東京帝国劇場的音楽劇「天草四郎」的演出,以上的便是當時劇照。
踏入80年代,因為Julie演出太多了,加瀨覺得有些厭倦,開始有意離開,於是那時起將producer 的工作逐漸放手。後來加瀨於各節目中遇上其他優秀人材,同他們一齊做一些新事情。同Julie的交往,就是這樣喇。
(即係明天起,可以唔再追看時代的証言喇。)


13年間続けました。

 衣装を担当したのは早川タケジ君です。「TOKIO」の落下傘や「OH!ギャル」の女性用メークも彼と相談して決めました。

 当時パルコの広告で活躍していた石岡瑛子さんにはジュリーの新しい魅力を引き出してもらった。

 男性ポップス歌手としては女性用メークもヌード写真も初めてでした。

 演出家の蜷川幸雄さんとは音楽劇「天草四郎」を作りました。

 ジュリーは最初は「えーっ」ていう顔をするけれど、こちらが思った以上のことをやってくれた。

 ただ1980年代に入ると、彼は濃い演出に少し疲れてきた感じがした。僕は離れるべき潮時かなと思い、プロデュースから徐々に手を引いていきました。

 僕は節目節目で優秀な人と出会い、新しいものを一緒に生み出せた。ジュリーとの出会いもそうでした。

11/9日原來是老虎赴京紀念日呢,瞳也是從fans處得知,連佢自記都唔記得呀。

2011年11月11日

ジュリー ソロで初の1位






 
ジュリー ソロで初の1位


1971年,Julie 同萩原健一組成PYG樂隊。當時,加瀨同Julie 講左一番話,他叫Julie唔好行Rock呢條路,因為頭髮長長污兮兮的完全凸顯不到Julie的魅力。Pop 就唔同喇,那時在日本還沒有型格好,給人乾淨明亮的歌手,Julie絕對能做到。當時加瀨提出話想同Julie並肩塑造一個咁既Julie出黎。

果然PYG第二年就玩完。反而加瀨為Julie度身而作的「許されない愛」上了流行榜第四位,令他1972年第一次出席紅白歌合戰。自此,加瀨為Julie選曲呀,舞台演出等等的製作工作多左。到1973年,由加瀨作曲,安井かずみ作詞的「危険なふたり」成為Julie作為獨立歌手的第一首榜首歌,非常受歡迎呢。



 ジュリー(沢田研二さん)は1971年(昭和46年)、ショーケン(萩原健一さん)などとロックグループのPYG(ピッグ)を結成しました。



 僕はジュリーにこう言いました。



 ロックの畑に行ってはだめだと思う。長髪で汚れっぽくなったら魅力は出せない。ポップでかっこよく、きれいで輝いている。そんな歌手は日本にいないけどジュリーなら絶対なれる。僕はそんなジュリーを一緒に作りたいと。



 PYGは結局、翌年に事実上解散します。そして僕がジュリーのために作った「許されない愛」がヒットチャート4位になり、ジュリーは72年暮れの紅白に初出場しました。



 この後、曲選びや舞台演出など彼のプロデュースの仕事が増えていきます。



 そして73年、安井かずみさんと僕で作った「危険なふたり」がソロとして初の1位になりました。人気はぐんと高まりました。
依加瀨說,差不多是他"發掘"出呢粒明星。姑勿論誰有慧眼,Julie本身確要有實力魅力才能被發掘的。對加瀨的好感又多一些。說老實,我也愛Pop Julie 多過 Rock Julie 多一點。
大家來看看,下面呢個加瀨都幾正架!


2011年11月9日

華と毒があったジュリー


華と毒があったジュリー







你看,站在加瀨身旁的Julie 五官多精緻!

加瀨喺1966年秋天第一次同tigers 會面。當時因為宣傳「想い出の渚」來到大阪。乍見Julie 原全不不覺得他搶眼。佢好靜唔出聲,加瀨對他未有留下印象。
但後來11月他們出東京後,加瀨第一次看見台上的Julie,驚為天人!話Julie有不可思議的魅力,不是一般的光華,而是帶有"毒"的光華。這"毒"並不解作惡毒,是一點貶意也無的。那"毒"或許是嚇人的,也許是尖銳的,總之不只是漂亮那麼間單, 總是有些甚麼吸引住你,是加瀨從沒見過的一種歌手。
就是被Julie 的魅力俘虜,加瀨於70至80年代,成為Julie 的producer(監制)。

有片睇:http://show.yomiuri.co.jp/special/jidai/movie16.htm

網版只是撮要。原來加瀨的wildones 也是渡邊制作公司的,去大阪時,透過內田裕也認識tigers。第一次見tigers 表演是在新宿的ACB,內田同加瀨講「睇!澤田真係正架!」。果然67年「夢娜麗莎的微笑」令Tigers 成為group sound 皇者。Tigers 走個性派,俾人一個"做自己野"既感覺。
有時加瀨同tigers一起去各處玩,加瀨同Tigers d 成員喺旅館打麻雀,Julie就喺側邊傾下偈咁。
因加瀨對Julie有好感,請佢返屋企玩,連加瀨阿媽都鐘意佢,留佢喺屋企過夜。兩人熟到放假時都會一齊過。Julie會借隻船出去釣魚。其實Julie唔係咁鐘意釣魚,而且會暈船浪,不過因為出到海無其他人,佢鐘意果種解放既感覺嗟。



タイガースのメンバーに初めて会ったのは1966年(昭和41年)の秋、「想い出の渚」の宣伝で大阪を訪れた時でした。


 ジュリー(沢田研二さん)は一番目立たなかった。おとなしくて、印象に残りませんでしたね。



 でも11月の上京後、初めてステージに立つ姿を見て驚きました。



 不思議なオーラがあった。華があった。それもただの華ではなく、ちょっと毒気のある華。毒と言っても悪い意味じゃないですよ。怖さというか、鋭さというか。ただきれいとかだけじゃない。何か訴えるものがある。見たことがないタイプのシンガーでした。



 僕はジュリーの魅力にどんどん引きつけられます。そして70年代から80年代にかけて彼のプロデュースをすることになります。



 プロデューサーをめざした背景には、グループサウンズを取り巻く状況の変化もありました。







 

2011年11月7日

朝帰り 5時間で曲完成

加瀨邦彥的時代的証言11/7篇有提及Julie:
朝帰り 5時間で曲完成


話說加瀨自組the wild ones 後,第一隻碟係自己作既「想い出の渚」,大熱。紅左之後應酬不斷。有一天,當佢蒲完朝早五點返到屋企,收到the tigers經理人急call,要佢早上10點前作首歌出黎俾julie唱。而填詞人安井かずみ去到studio,就即刻填埋詞,Julie 要在短時間內記熟晒。結果,黃昏6時成隻歌搞掂! 此曲乃 「シー・シー・シー」是也。
グループサウンズがブームのころは、ざん仕事して疲れていても、夜は街に繰り出しました。



 よく行ったのは赤坂の高級ディスコのムゲンやビブロスです。デザイナーや写真家から女優やモデルまでいろんな分野の人が集まってきてた。みんなで飲んで騒ぐ。次々と人を紹介される。楽しかったですね。



 今なら考えられないような仕事もしました。



 ある日、飲み歩いて朝5時ごろ帰るとタイガースのマネジャーから、曲を大急ぎで作ってくれという電話があった。それも午前10時までにって。たった5時間しかない。それでも何とか曲はできました。



 スタジオでは安井かずみさんがすぐ詞を作り出す。ジュリー(沢田研二さん)は懸命にメロディーを覚えてる。そして夕方6時には全部できちゃった。



 この曲「シー・シー・シー」はジュリーとの最初の仕事になりました。

2011年11月4日

大感動!≪沢田研二 LIVE2011〜2012≫

 東京国際フォーラム・ホールA 10月2日





Music Pen Club 11 月刊有一篇報導有關10月2日東京國際forum 沢田研二LIVE:
10月2日黃昏時候到達有樂町站的大部份女人都向同一個方向進發,目的地是東京國際forum ,即沢田研二LIVE的場地。同以往Julie Live不同的是,今次表演嘉賓有
森本太郎(タロー)、岸部一徳(サリー)、瞳みのる(ピー)全程參與。一諗到有四十多年前Group Sound王者The Tigers既金曲聽,腳步不其然加快。
進入A Hall,發覺全場5000席全滿! 7時30分開show啦,耳邊響起Julie既"GS I Love you"。同名大碟就在1980年尾發賣。而這有樂町, 更曾是日劇的地點,1981年1月的"再見日劇Western Carnival" 及沒有瞳的Tigers的復活的地點。(有關史料情參看:
http://yachan2011.web.fc2.com/s56nen.html)相信聽到呢隻歌而諗起呢d舊事的人可多著呢。此時,穿著不同顏色外套的成員正式登場。大聲高歌♪Mr. Moonlight♪的Julie身旁有著Taro, Sally 及Pe *,一直以來Tigers fans 夢想著的LIVE,正式揭幕。此乃Beatles名曲,也是當年Funny年代的Tigers名曲。跟著是Dave Clark 5 既"Do You Love Me",瞳也就大演鼓技,全無冷場;Sally 出色的低音、彈奏著Karl Hofner的bass就同Tigers時代無分別;拿著黑色Stratocaster電結他的Taro看來也非常愉快;Julie也rock起來。唱Rolling Stones 既"Time is on my Side"時,Julie 的跳躍令全場沸騰起來。MC時段,Julie搞gag流暢得很。Sally的身份不是演員岸部一德,而是低音結他手Sally是也。至於Taro,近數年每月都有演出,對今次演出一點兒不安也沒有。Fans們對40年無見、用中國話打招呼的瞳予以大聲喝采。
接著是Tigers的出道名曲"
僕のマリー"。打後是一連串Tigers原唱歌曲,Julie甜美的歌聲令一眾fans 陶醉在當日情懷中;Taro用口琴演奏"モナリザの微笑",接著是電影主題曲"銀河のロマンス"等等大熱歌曲。值得一提的是由Sally作詞 Taro作曲,有反戰意味的歌"坊や祈っておくれ",當年除了是收錄喺LIVE大碟之內,是從來沒有正式發表過的(後來的CD是由demo tape 製成的)。從此曲可以充分咁欣賞到Julie,Sally及Taro三人的美妙和音。(相當有同感,Tigers的歌的和音是Julie歌沒有的,尤其是Sally 的低音得分最高!)

繼續落黎又到英文歌部份。Taro唱Dave Clark 5既"Because",狂野Julie唱Rolling Stones 既"Satisfaction",而Pe就從鼓堆中跳出黎,主唱Rightious Brothers既"Justine"。奇怪,觀眾們就同40年前武道館Beautiful Concert Pe主唱時(當時是唱"Henry the 8th"等雜錦歌)的反應一樣,大叫「ピー!ピー!」。當年Pe在台上係咁講:「對我來說,今次係我最後一次踏上舞台,最後一次獻唱,請大家一齊唱!」從此瞳再不是ピー... 但如今,Pe以最佳的狀態回到我們面前,一邊Julie、Sally 及Taro伴奏,一邊全場觀眾拍手歡呼來迎接Pe的回歸。該曲演奏完畢眾成員也就退下,豐富的上半場完結。

約15分鐘休息過後,在Rolling Stone既 "Little Red Rooster"襯低音樂中,眾成員穿著胸前及袖口都繡了圖案的禮服出場。後半部以"
淋しい雨"開始,"風は知らない"、"散りゆく青春"都是Tigers 的B面名曲。由Julie 主唱的"花の首飾り"帶來新鮮感,一曲既終,餘音裊裊。接著的"割れた地球"、"怒りの鐘を鳴らせ"、"美しき愛の掟"盡顯Rock本色。MC之後,係Taro作詞作曲的"青い鳥"、大家要跟著舞步的Hit曲"Seaside Bound"、同Tigers 最人氣既"君だけに愛を",Julie一唱「君だけに」,觀眾用視線緊盯著,他會用食指指向那邊觀眾席呢?這已經成為經典場面。唱到Tigers最後一隻細碟的"誓いの明日", 便開始感到如夢的時光快要結束,聽著聽著,就似是與當日Beautiful Concert 時一邊聽一邊哭泣的fans們的心情一樣。此曲完後,眾成員也就退下,全場響起Encore的拍手聲。

眾成員在歡呼與拍手聲中再登場。逐個介紹的當兒,觀眾都毫不吝嗇地大力拍掌。之後是輕快的"シー・シー・シー",再來是"落葉の物語",係一首格調高、"君だけに愛を"的B面歌。最後由Pe的鼓聲敲起"Love Love Love"的引子,只要是Tigers fans都知,這是真正最後的一首歌。大約2時間一共24首歌,Julie, Sally, Taro 同Pe都全力演出到最後。全場Fans高舉右手作"L"手勢,最偉大的Rock Show的幕終於落下。期待明年1月24日於武道館最後一場。

*一直拒用瞳的英文暱稱官方串法,因為....



10月2日夕方、有楽町の駅を降り立つと多くの女性が同じ方向へと足を進めていた。行き先は東京国際フォーラム。沢田研二のLIVE会場だ。今回はいつものジュリーのLIVEとは一味違う。ゲストとして森本太郎(タロー)、岸部一徳(サリー)、瞳みのる(ピー)が全曲参加するのだ。40年以上前、グループ・サウンズの王者としてブームの頂点に君臨した、あのザ・タイガースで一緒だったメンバーとともに、全曲タイガース時代のレパートリーを演奏するという。これを聞いて血が騒がないはずが無い。会場へ向かう足取りも自然と早足になる。

会場であるホールAに入ると、5000席はあるという場内は既に満員。19時30分の開演時刻になり、場内には聴き覚えのあるジュリーの歌声が流れた・・・「G.S.I LOVE YOU」だ。同名タイトルのアルバムが発売されたのは、80年の暮。ここ有楽町のシンボルでもあった日劇の取り壊しが決定し行なわれた「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」で瞳みのるを除くザ・タイガースのメンバーが一堂に会したのが翌81年1月の事だった。この曲を聴いて、その頃の事を思い出されたファンの方も多かっただろう。そんな思いにふけっている内に、全員色違いのジャケットに身を包んだメンバーがステージに登場。♪ミスタァ〜〜〜ムーンラーイト♪、シャウトを決めるジュリーの周りには、タローが、サリーが、そしてピーがいる。ジュリー、いやザ・タイガースのファンが長年夢にまで見たLIVEが今まさに幕を開けた。この曲はビートルズのカヴァーだが、京都の頃のタイガース、すなわちファニーズ時代のレパートリーでもある。続くデイヴ・クラーク・ファイヴのカヴァー「Do You Love Me」ではピーのドラミングが全開。ブランクをまったく感じさせない叩きっぷりは見事だ。サリーも得意の低音ヴォイスを聞かせる。タイガース時代と同じカール・ヘフナーのベースの音もよく出ている。黒いストラトキャスターを持ったタローも楽しそうだ。ジュリーのアクションもノッている。タイガース時代の18番、ローリング・ストーンズの「Time Is On My Side」ではジュリーのジャンプに場内が沸く。MCではジュリーのギャグも飛び出し絶好調。サリーも今日は俳優・岸部一徳ではなくベーシスト・サリーだ。タローは数年間にわたって毎月LIVEを重ねて来ており演奏に不安は無い。そして40年ぶりにファンの前に姿を見せたピー(得意の中国語で挨拶した)には一際大きな声援が飛ぶ。

次の「僕のマリー」からはタイガースのオリジナル曲が登場。この曲はタイガースの記念すべきデビュー曲。当時を思わせるジュリーの甘い歌声は場内のファンを酔わせた。コーラスにも厚みと貫禄がある。タローがハーモニカを演奏する「モナリザの微笑」、主演映画の主題歌だった「銀河のロマンス」と大ヒット曲が続く。「坊や祈っておくれ」は、サリー作詞、タロー作曲による反戦のメッセージを込めた曲で、当時ステージでは演奏されていたものの、レコードではライヴ盤以外では公式には発表されていなかった(後にデモテイクがCD化された)。ジュリー・サリー・タローの素晴らしいコーラスワークを存分に聴かせた。

続いては洋楽カヴァー。タローの歌でDC5の「Because」をしっとりと聴かせた後は、ジュリーによるワイルドなストーンズ・ナンバー「Satisfaction」を。ラチャス・ブラザースの歌で有名な「Justine」では、ピーがドラムセットから降りてセンターでヴォーカルを披露。奇しくも71年1月24日、日本武道館でのビューティフル・コンサートでもピーが歌った曲だ(その時はハーマンズ・ハーミッツのカヴァー『ヘンリー八世君』とのメドレー形式)。ピー!ピー!という観客とのコール&レスポンスも40年前と同じ。あの時ピーはステージ上で「僕にとってこれが最後の舞台です・・・最後の声、出してください!」と言い、その言葉通り、≪瞳みのる=ピー≫は封印された。しかしピーは、今、こうして私たちの前に最高の形で帰って来てくれた。ジュリー、タロー、サリーは一緒にプレイする事で、そして満員の観客は拍手と歓声でピーを温かく迎え入れていた。演奏が終わるといったんメンバーが下がり、盛り上がったまま前半が終了。
 
約15分の休憩の後、ローリング・ストーンズの「Little Red Rooster」のBGMにのって、胸元と袖口に刺繍をあしらったタキシードに着替えたメンバーがステージ上に現れた。「淋しい雨」からスタートした後半は、「風は知らない」「散りゆく青春」と、タイガース後期のシングルB面に収められていた言わば隠れた名曲が続いた。次に演奏された「花の首飾り」では、ジュリーがヴォーカルを担当。聴き慣れていた歌も新鮮な気持ちで聴く事が出来た。スローな曲が終わると間髪入れずにハードなリフが炸裂。アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』に収録されていたロック・ナンバー「割れた地球」だ。さらにハードな「怒りの鐘を鳴らせ」「美しき愛の掟」では、ロック・バンドとしての実力をまざまざと見せ付けた。MCのあとはタロー作詞作曲による「青い鳥」、ステップも飛び出す初期のヒット曲「シーサイド・バウンド」、そしてタイガースの人気を決定付けたとも言える大ヒット曲「君だけに愛を」が登場。もはや伝説となっている♪君だけーにー!♪というジュリーの指差しパフォーマンスに観客の目線は釘付けとなり、場内はこの日一番の盛り上がりを見せた。続いてタイガースのラスト・シングルでもあった「誓いの明日」が演奏されると、この夢のような時間も終わりに近づいて来ている事を実感した。この曲を聴きながらビューティフル・コンサートで泣きながらこの曲を聴いた当時のファンの気持ちがオーバーラップし、心の中にこみ上げてくるものがあった。演奏終了後メンバーは退場。場内にはアンコールの拍手が鳴り響いていた。

鳴り止まぬ拍手と声援に応えてメンバーが登場。改めてメンバー紹介が行なわれ、
一人一人にさらに大きな拍手が送られた。サリーのベースで始まったのは、軽快なロックンロール「シー・シー・シー」。観客も手拍子で雰囲気を盛り上げる。続いての「落葉の物語」は「君だけに愛を」のB面ながら人気の高い曲。格調高いイメージがタイガースにぴったりの曲だ。そしてピーのドラムが、「ラヴ・ラヴ・ラヴ」のイントロを叩き始めた。ファンなら誰でも知っているタイガースのLIVEでのクロージング・ナンバーだ。♪時はあまりにも早く過ぎ行く♪という歌詞にある通り、素晴らしかったこの夜のLIVEも、この曲で本当にラスト。約2時間で全24曲、タローもサリーもピーも最後まで力強い演奏を聴かせてくれた。ジュリーも実に気持ち良さそうに歌っていたように感じた。ファンが右手を掲げて作ったLの字が場内を埋め尽くし、最高のロック・ショーの幕が下りた。今後も日本各地でLIVEを重ね、来年1月24日には、40年前に解散の場所となった日本武道館LIVEが控えている。