2011年9月19日

〈人生の贈りもの〉沢田研二さん(63)9・12~16(1-5)

一直都有追看TOMO 們網誌轉述朝日新聞夕刊一連5日既連載,幸好朝日終於將成份稿登上網頁,好讓我連汁都撈埋:

〈人生の贈りもの〉沢田研二さん(63)1

看,很久很久沒見他戴帽了,這幅相份外親切。JULIE 仍然戴著黃手帶,仍為東日本送上祝福。

其實這裏寫的都是陳年往事,全都是自述傳裏提過的出道過程,由京都唱到東京,由打BAND 到獨立 ...大家去維基百科望便是,這裏不贅了。

歌手■「僕でええの?」と思いつつバンドに

 ――中学までは野球少年。人前で本格的に歌うのは、京都の高校時代が初めてですね

 高校2年の時、ダンス喫茶「田園」のバンドマスターの彼女の弟が友達だったんです。彼に「おもろいところあるから行こ」と連れられて行ったら、バンマスに「バンドで歌わせてやるから歌覚えてこい」と言われた。友達も乗り気になって、「これ覚え」、「あれ覚え」と色々言ってきて、覚えていったんです。

 ところがバンマスは、実は付き人を探していた。がらがらの平日を除いて、ほとんど歌わせてもらえず、楽器の片付けとか雑用ばかりでした。

 ――学校生活の方は

 僕が通った鴨沂(おうき)高校は進学校。勉強が難しくて赤点もついて、サボってばかり。当時腰掛けで入っていた空手部から「活動禁止」と言われた。それで「田園」とかに入り浸るようになったんです。

 ――「田園」で、ザ・タイガースのメンバーと出会います

 平日でも、サリー(岸部一徳)、タロー(森本太郎)、ピー(瞳みのる)、トッポ(加橋かつみ)はいつも4人で来ていた。とんがった形の靴を履いて東映のやくざ映画みたいな服を着ていた僕とは対照的に、当時流行のアイビーとかコンチ(ネンタル)の服を着ていた彼らはカッコ良かった。僕はステージでモンキーダンスをしながら見ていましたよ。そんなある日、サリーに突然「ファニーズってバンドをつくる。一緒にやらへんか」と誘われたんです。「僕でええの?」とか思いながら「やります」と。

 「田園」以外で人前で歌った経験なんて、観光バスの中くらいでしたからね。ちゃんとした本物のマイクで歌うと、「自分こんな甘っちょろい声なの?」とびっくりした。「人に、このレコード聞け」と言われると、プロの人たちは独特の声。僕なんか「こんな声で歌ってて、いいの? 恥ずかしい」と思いましたね。

 だから、歌い手になるとかテレビに出るとか、そういうのは現実的に考えたことはなかった。ビートルズなんかの声や歌い方を一生懸命コピーしたり、わざとがらがら声にしたりして練習していましたよ。

 ――でも、ファニーズの目標は「日本一になる」でした

 「そんな甘いもんじゃないで」と思っていたけど、僕は自主性が全くなかったから素直にみんなの言うことを聞いていた。

 「田園」を辞める時、「バンドメンバーが日本一になる言うてます。僕も呼ばれてるんです、だから辞めさせてください」とバンマスに言ったら「お前アホか」と言われたのを覚えています。

 

■裕也さんの誘い ジュリーへの転機

 ――京都を出て大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に行きます

 「ナンバ一番」は関西の歌手やバンドの登竜門的な場所だった。僕らの時代は、ナンバで認められたら、名古屋の老舗ジャズ喫茶を経て、その後東京に出て行くという順序があった。

 そこに出るために、オーディションを受けたんです。メンバー全員20代以下の若いバンドはほかに無くて、ほぼそれだけの理由で受かったんですね。

 1日7千円で4ステージくらいやりました。後は、姫路の映画館でほかのバンドの前座をやったりもして一日一日食いつないでいました。

 ――転機は「ナンバ一番」に来た内田裕也さんに見初められたことでした

 裕也さんは、自分のバックバンドにしようとしたんでしょうね。「君たち、おれと一緒にやらんか」と声をかけてきた。当時ブルージーンズの大物ロッカーだった裕也さんに声をかけられて、有頂天になりました。裕也さんは、渡辺プロダクションのオーディションを勧めてきてくれたけれど、その後、1カ月、2カ月と具体的な連絡がない。

 僕らは本当に暇だったから、リーダーのピー(瞳みのる)が、ファンのスポーツカーを借りてきて大阪城の前で宣材用とか言って写真を撮った。ピーは、それを持って「裕也さんは代々木にいるらしい」という情報だけで自宅まで行って本人に渡しちゃったんです。

 ――ずいぶん思い切った行動でした

 でも、その写真がなんかの縁で、業界大手の渡辺プロダクションのスカウトマンの手に渡った。スカウトが「ナンバ一番」に来るということになり、裕也さんが事務所に電話をしてきて、「お前らあれやれ、これやれ」と曲の指示をした。その通り演奏したら、終わって楽屋にスカウトが来て「東京に出てくる気はありますか」と聞いてきた。みんな二つ返事で「行きます!」と。

 東京に着いたら、世田谷・千歳烏山にみんなで下宿を借りて、しばらくは裕也さんと一緒に新宿のジャズ喫茶「ACB(アシベ)」なんかで演奏していました。1966年、18歳のころのことです。

 ――ジュリーの名前はこのころついたんですね

 今まで、あだ名らしいあだ名が無かった。普通に研ちゃんと呼ばれたり、三下とかそういう意味で「文吉」と呼ばれていたこともある。あとは「ガリ細」とか「もやし」とか。

 なんか呼びやすい名前をつけようということになって、「自分でつけるしかしゃあない」と思った。当時歌手のジェリー藤尾さんが好きだったんです。でも、「ジェリー」と名乗るのは恐れ多い。「わっと一息に呼べる名前がええんや」と誰かに言われて、結局ジェリーに近い呼び方で「ジュリー」にしようと。女優のジュリー・アンドリュースが好きだったということもあります。

■タイガースで人気 でも必死だった

 ――初めてテレビに出たのは

 すぎやまこういちさんがディレクターをやっていた「ザ・ヒットパレード」の新人紹介コーナーですね。その頃一緒に出たのが「アンドレ・カンドレ」時代の井上陽水さんや「ザ・ワンダース」の尾崎紀世彦さんでした。

 ――「ザ・タイガース」の名前は、この時ついたんですね

 すぎやまさんが「お前ら大阪から来たならタイガースでいいじゃないか」と、ノリでつけたんです。その頃すぎやまさんは「天皇」と言われるくらい絶対的存在でした。「野球と別やろ」と思ったけれど、そのまま受け入れた。

 ――人気が高まっていったのを実感したのはいつからですか

 上京の翌年に出た「日劇ウエスタン・カーニバル」からかなあ。当時有楽町にあった日本劇場でやっていた音楽フェスティバルです。内田裕也さんが無理やり出演を押し込んで、最初のシングルになった「僕のマリー」や「タイガースのテーマ」を歌わせてくれた。毎日毎日、どんどん喚声が増えていって「僕ら人気出てきたんちゃう?」と。お陰様で、第2弾シングルの「シーサイド・バウンド」は大ヒットしました。

 日劇の後は、別のジャズ喫茶に行って演奏しても、うわーっと満員になる。客層もそれまでの大人の女性以外にも、セーラー服の子なんかも来るようになったんです。補導の先生やお巡りさんが出てきたりもしました。

 ――人気者になった心境は

 「すごいなあ、必死でついていかんとなあ」とひとごとのように思っていました。有頂天になるという感覚よりも、焦りというか。

 その頃、バンドの歌い手というのは、地位が低かったし、それにメンバーで一番年下で一番最後に入れてもらったというのもあって、ステージに上がったら一生懸命やらないけなかったんですよ。

 ――当時はグループサウンズブームの始まり。超過密スケジュールになりましたか

 テレビは録画物が多かった。それと「平凡」「明星」など雑誌の撮影スケジュールが大変でしたね。それこそ分刻みで、次に行く。集英社のすぐ近くに小学館があって、「僕ら次あるんで」って走って行きました。

 乗り物に乗ってもすぐ寝てたし、地方に行くときはまだ飛行機の便も良くなかったから、ステーションホテルで休憩をとって、最終の夜行列車で行くなんていうこともありました。1968年には日本初のスタジアムライブを後楽園球場でもやりました。

 ――海外にも行きましたね

 初めて外国に行ったのはCM撮影でのグアム島でしたが、当時は、海外で何かするってだけでハクがつく時代でした。映画「ハーイ!ロンドン」ではロケでロンドンに行って、ミック・ジャガーに偶然会ったりして。サインをもらったけれど、圧倒されましたね。

 

■理解できなかったタイガース解散

 ――絶頂期にトッポ(加橋かつみ)が抜けました

――喺絶頂期,  加橋要脫隊

 僕はザ・タイガースでの発言権は無かったから、マネジャーとほかのメンバーが話し合った結果として聞いただけだった。

當時我喺tigers 係無發言權的(入隊最遲年紀最細),都係經理人同其他隊友開完會話我知。

 かつみが辞める理由というのは、芸術的な理由で譲れないことがあったんだと聞いています。僕は自分のことをアーティストと思っていなかったから「言われてできることがあれば、ええんちゃうの」と思っていた。「売れてるんだから、ええやん。何が不満なのかな」と彼の気持ちをまるで分かろうとはしませんでした。

據說請辭的理由是在藝術上有不能退讓的事情。我當時無當自己係"artist"的原故,只係諗人家叫做的東西既然做得到,咁都唔鐘意?我地又受歡迎喎,又有乜野唔滿意嗟?我當時係無法理解加橋的心情的。

 ――若さ故ですか

 ――係年青的原故?

バラエティー番組の「シャボン玉ホリデー」なんかでは、いろんな人といろんな歌を歌って、何度も録音し直して、ディレクターに嫌な顔されるんですよ。「そんな音やない、お前ら」と何度も言われた。

由於有份參加「シャボン玉ホリデー」的演出,有好多人唱唔同既歌,有時錄音時俾導演呼喝"乜唱成咁!",俾面色我地睇架。

 そういう経験をしていると、今の若い人たちのように、自分のやりたいものだけを表現するというのとは違って、自分たちの隠し味になると思っていたんですね。

呢d咁情況之下,同而家d後生仔諗法一樣,我地開始覺得,咁樣違背左我地只做自己想做既野既意願。

 ラジオや雑誌の人気投票では、同じグループサウンズの「ザ・スパイダース」よりも、「ブルー・コメッツ」よりも人気があって一番ということになっていて「何が不満なの?」と思った。

雖然電台同雜誌的人氣group sound 投票,我地比起 The spiders呀,blue comets 都要受歡迎,我總是覺得有甚麼不滿的?

 でも、自分が今、活動姿勢として「これはやります、これはやりません」とはっきり言う立場になって、当時のかつみの気持ちが理解できるようになりました。

 如今我出黎活動,就係講到明邊d做,邊d唔做,我先明白當年加橋既心情。

――トッポ脱退後、シロー(岸部四郎)が入りました

 彼が入って、タイガースはくだけた感じになりました。シローはほとんど楽器が出来なかったから、残りの3人で音を出している感じだったけど、人気だけは相変わらずあったから、なんとか乗り切っていた。

 ――1971年1月24日の日本武道館コンサートで解散。前触れはあったのですか

 ピー(瞳みのる)が辞めるという話が出てきたのが一番です。

 タイガースで人気が一番になった時「これは永遠に続くもんだ」と思ったけど、終わるのはあっという間でしたね。ピーが「新聞記者になる」と言って辞めるとなった時は「誰か新しくドラムに入れるのかなあ」と思ってたら、「ほかの人を入れるのもあれだし、解散しよう」ってことになった。

 その時、タロー(森本太郎)は「アルファベッツ」、シローは、「ブレッド&バターと一緒にやる」と言い出した。ピーは「これからタイガースの葬式をするって話をしているのに、次の結婚式の話をするな」って怒っていました。実は、その後の進路を考えてないのは、僕だけだったんです。週刊誌には「沢田は解散してソロになるらしい」って書かれたけれど、現実は全然違った。

 そんなときに、サリー(岸部一徳)から「スーパーグループを作ろうと思っている。ザ・テンプターズから萩原健一、ザ・スパイダースから大野克夫と井上堯之(たかゆき)が来る。お前も来ないか」と言われたから、「お願いします!」と。

 思えば、タイガース結成の時からずっと誘われるまま。主体性が無かったんですよね。

 

■予想外にソロでも売れた

 ――1971年のザ・タイガース解散の後は、PYG(ピッグ)というバンドに

 PYGはスーパーグループだった。タイガースではできなかった難易度の高い曲が、ザ・スパイダースからPYGのメンバーになった大野克夫さんや井上堯之(たかゆき)さんだと出来た。ザ・テンプターズからショーケン(萩原健一)という花形もメンバーに加わったPYGの時代は、僕にとっては、すごい血となり肉となった。レコーディングの仕方も具体的に学んだ。勉強の時期ですね。

 しかし、PYGは、(大都市の)東京、大阪、名古屋でコンサートをやるとお客さんが入るけど、地方での入りは壊滅状態だった。

 ――PYGの時期は、短かったですね

 ショーケンが映画の世界に近づき、一方で僕は渡辺プロダクションに「ソロでやれ」と言われた。PYG結成と同じ年に「君をのせて」という曲をソロで初めて出したんですが、当時はこの曲は、こびたような感じで好きではなかった。服も蝶(ちょう)ネクタイにタキシードを着せられた。大人っぽくさせられるのが嫌な時期だったんです。「どうせ売れへんで」とひねてもいた。

 ――その後、予想を裏切って2曲目の「許されない愛」がヒットしました

 タイガースが終わって「もう、あんな風になることはないやろ」と思っていた。だけど、「バックに渡辺プロがついているから」とか「グループが良かったからでしょ」と言われるのが嫌で、そういうのを「くそー」と思って、「本番で頑張るしか自分の生きる道はない」と、がむしゃらに頑張ったからですかねえ。

 そうこうしているうちに、ソロの仕事が増え始めた。PYGは解散したのではなく、自然消滅という形になりました。実質1年くらいの活動でした。

 ――ソロが軌道に乗ってくると、だんだん衣装が派手になっていきました

 デザイナーの早川タケジさんと作曲をしてくれた「ザ・ワイルドワンズ」の加瀬邦彦さんが「面白いからやっちゃえ、やっちゃえ」とのせてくるんです。

 例によって自主性が無くて、人の言うことをすぐ聞いちゃうから、「そう?そう?」と僕ものっかっていった。その結果が、パナマ帽を飛ばした「勝手にしやがれ」だし、「カサブランカ・ダンディ」のウイスキーの霧吹きだし、「OH!ギャル」の女性メークだった。

 この頃は、ほかに大野克夫さんが曲を書き、阿久悠さんが詞をつけて、いうなれば、沢田研二というキャラクターを使って、みんなでガチンコ勝負をしていたって感じなんですよ。歌のフリは、自分で考えてましたけどね。「アイドルって人気だけやん」って言われる状態も、十年続ければみんな振り向きよるやろと思ってやってました。

 やることなすこと話題になって、歌番組で僕の衣装を共演者がうらやましそうに見ていたりするのは快感でしたね。ただ、こんな絶頂でも、「これをずっと続けられるんやろか」という不安はありました。(聞き手・木村尚貴)

 

 さわだ・けんじ 1948年、鳥取県出身で京都府育ち。人気グループサウンズ「ザ・タイガース」、「PYG(ピッグ)」のボーカルを経てソロに。77年「勝手にしやがれ」で日本歌謡大賞と日本レコード大賞をW受賞。パラシュートを背負って歌う「TOKIO」など過激な衣装が話題になる。映画や舞台にも多数出演。現在は、来年1月まで、ザ・タイガースのメンバーを集めて全国でコンサートツアーをしている。

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